――お二人がいるからといって、お世辞じゃないんですけど、去年アイリッシュ系で聴いたアルバムの中で特に好きだったのが、この三枚(ビギニッシュ『ストーミー・ウェザー』、デイヴィッド・マネリー『スウィング』、マーティン・オコナー『ROAD WEST』)なんですよ。
ギャーヴィン(以下G)(ビギニッシュとデイヴ以外の一枚をみて)その一枚、何?
デイヴィッド(以下D)マーティン・オコナーだ。素晴らしいアルバムだよね。
――彼こそほんと、アコーディオン・キングですよね。
D Yes, he is the king. マーチンとも仲良しなんだよ。すごくいい友だちなんだ。
――日本盤のライナーにある程度あなた方の情報が書いてあるんですけど、まずは基本的な情報から教えてほしいと思います。ライナーによると、家庭に伝統音楽があふれてるいい環境だったみたいですけど、 家庭の外、つまり近所とか住んでた町であるとか、そのへんの状況はどうだったんでしょうか。あなたの家の中と同じように、頻繁に伝統音楽が流れていて、演奏する人がたくさんいたのかどうか。(これを通訳の染谷さんが、家から外へ出た時は(step out from the house)と訊いたら、デイヴは「(学校へ行くのに)親元を離れた」との意味にとったらしい)
D 大学はダブリンのカレッジに行ったんだけど、学校に入学するなり、他のスタイル、新しい音楽に出会ったんだ。音楽をまた違った方法で楽しむ環境に出会った。子どもの時のことは、大学での経験とはまるで違っていた。でも、そうは言っても、僕は家で学んだことをそのまま持ち続けていたし、学校へ行って、逆に家で学んだことをさらに押し進めた感じだな。カレッジには4年にたんだけど、今、考えると、伝統音楽に関してはカレッジで習ったことはない。すべて家庭で習ったと言えるだろう。
――(通訳さんが質問をかえて)子どもの頃は、近所の人たちとか、みんな伝統音楽を聴いてたの?
D そうだよ。僕の近所の人たちは、たとえばいまだに僕のおじいさんの世代と同じような方法で、音楽を習っているんだよ。アメリカから来たレコードとかラジオとか。それが(音楽を)習う方法。それから、世代から世代へ、向かい合って椅子に座って話しながら、歳をとった世代が若い世代に演奏して聴かせるんだ。そしてまた更に、次の世代に教えるように、そうやって、世代を超えて伝わってきたんだ。テーブルを囲んで音楽を演奏しながら、お話を聴かせるみたいにね。なんにも書かれたものとか、そういうのはなかったね。
――なるほど、メイヨー州のあなたの故郷は、かなり伝統的だったんだ。
D そうだね。メイヨーには音楽がたくさんある。クレアやドニゴールやケリーみたいに有名じゃないけど。それはきっと、より政治的な理由(で有名でない)かもしれないけど。メイヨーは、何年も前から音楽が・・
G (というところで割り込んで)すべての州に音楽の盛んなポケットがあると思うよ。アイルランドには、ありとあらゆる場所に音楽がある。たとえばクレアには音楽で有名なある場所があるけど、同じクレアでも他の場所には音楽が盛んな場所はない。ダブリンだって音楽の盛んなエリアもある、でも他のダブリンは全然だめ、とか。メイヨーはかなり大きな州だけど、音楽があふれているポケットもあれば、まったくない場所もある。だいたい(メイヨーには)マット・モロイのパブ以外は、何もないんじゃないか?
――デイヴィッドはたぶん75年くらいの生まれだと思うけど・・
D 76年だよ。
――子どもの頃といったら、80年代の半ばですよね? そうすると普通だと、ラジオから流れてくるロックだとかポップスも聴いてたと思うんだけど。
D ラジオをかけるたびに、そこには流れてたけどね。だけど僕は、自分はアイリッシュ・ミュージックが好きなんだってわかってた。ポップスとかロックには、全然寄り道しなかった。ポップ・ミュージックやロックは、ぜんぜん僕に関係なかった。もうアイリッシュ・ミュージックが自分の人生だ、この道しかないと思ってたからね。
――そういうのって、きっと近所でも変わった子供だったんじゃないの?
D そうだよ! Why not! 他のやつらは、ラジオに頼ってるばっかりなんだ。僕はラジオなんか聴かなくたって、自分の部屋へ行ってアコーディオンをとりあげて、自分自身で楽しむことができたんだ。
――近所の子供たちは、マネリィの家のデイヴィッドは小さいのにアコーディオンばっかり弾いて古い音楽ばっかり聴いて、って言われてたのかな。
D 僕は全然心配してなかったよ!
G デイヴには友だちが全然いなかったんだ!(笑)
D 結局のところ、僕が気にかけていたのは、アイリッシュ・ミュージックだけだったんだ。学校に行くと、みんな医者や先生になりたがった。でも、僕はミュージシャンになりたかった。今、僕はミュージシャンだが、他のやつは医者でもなければ先生でもない。結局どっちが勝ったかってことだよ。ウォーホーイ!(笑)
――ミュージシャンになるって決めたのは、いつ?
D 7才から演奏を始めたんだけど、その時は、それが仕事になるなんて誰も教えてくれなかった。アイルランドの西の田舎から出てきて、音楽家になりたいだなんて、最も言わないことの一つだ。僕の両親は、特にどうしろとは言わなかったけどね。「趣味としては、すばらしい」って言ってたな。
G ジョン・レノンのストーリーみたいなもんだな。彼のおばちゃんが「ギターはいいわね、ジョン。でもそれで生活はできないわよ」って。
D なんていうか、メンタリティーの問題で…、実際に音楽でプロになっている人なんていなかったし。
G 音楽で食べられるようになったのは最近だよな。
D そうそう。この話は80年代だから。今、アイリッシュ・ミュージックはだんだん人気がでてきたけど、それは、ここ10年の話だよ。
G それまでは、それで生活するなんて考えられなかったんだ。だいたい伝統音楽のミュージシャンはデイ・ジョブ(昼間の仕事)を持っていたし。アルタンにもいまだにそういう人がいるし。
――うん、マーク・ケリーはそうだよね。
G そう。ポール・オショーネシー(元アルタン、現ビギニッシュ)もデイジョブをいまだにしているし。ほんと信じられないんだけど、ほとんどのアイリッシュ・ミュージシャンはデイジョブを持っているんだ。(フィドラーの)パディ・グラッキンもRTEで仕事しているし。トニー・マクマハンもそうだし。ショーン・ポッツはアイリッシュ・インディペンデント(新聞)で書いているし。
D 実際、人気がでたら、そういった昼間の仕事を離れられると思うんだけど、みんな、わりと辞めないんだよね。まぁ、とくに当時は(80年代)は、人気がでてもいつまで続くかわからなかったし。今は、だいぶ違う。素晴らしいよね。でも、最初のうちは…いったい誰がこの栄光が続くって、保障してくれるんだい。6ケ月忙しく て、あとはさっぱりってこともあるわけだから。
G アイルランドってすごく小さいんだよ。レコード店が127しかないんだよ。演奏できる場所も、ダブリン、コーク、ゴールウェイ…限られているし、国内ツアーなんて一週間もあれば終わっちゃう。
D 有名な会場なんか五つか六つしかない。
――ドーナル・ラニーですら、80年代の後半までは、パブで演奏して、お金がでなくて、ビールだけがギャラだったんだって、以前言ってたなあ。
D オフ・コース!!(と、思わず声が裏がえるデイヴ)
G ジョークじゃないよ。みんなそうだったんだ。ドーナルは、最も重要なミュージシャンで、プロデューサーで、アレンジャーで、でもプランクシティとかの時代に、ビール一杯のために演奏してたんだ。ほんとだよ。
D アイリッシュ・ピープルは、残念だけど自分たちの伝統をリスペクトしてないんだよ。アイルランドのミュージシャンは、生活していくために外国に出なければならないんだ。日本へ来たり、アメリカに行ったり、デンマークや、ドイツ…お金のために! アイルランドじゃちっともお金にならないんだよ。
――あなたは、音楽が職業として成り立つ頃にシーンに登場してきたわけで、ちょうどいい時代に生まれたってことですね。ラッキーだった。
D だといいけど。先のことは誰にもわからないよ。リバーダンスが成功したり、シャロン・シャノンが成功したり…彼等がアイリッシュ音楽を世界のステージに持っていったんだよ。その前はそうはいかなかった。5年、いや10年前に、リバーダンスみたいなアイリッシュ・ダンスが、カネギーとかのニューヨークの大きい会場を、満杯にするだなんて、誰が想像しただろう。キャッツとか、そういうミュージカルみたいにさ。いまじゃ世界中を五つかそこらの(アイリッシュ・ダンス)カンパニーがツアーして廻っている。
――話がちょっとそれるけど、デイヴは今話題に出たリバーダンス一座にも誘われたらしいね。
D ああ、誘われたよ。
――それは断っちゃったわけ?
D 実は、3〜4ケ月間やったんだよ。で、嫌になっちゃった。
―−なんで、嫌になったの?
D なぜ嫌いかと言うと…まぁ、だいたい僕は子供時代から変わり者だったからな。前にも言ったように子供の頃ころからポピュラーな音楽じゃないものを聴いてたし。他の人がなんて思うかなんて気にしてなかったし。で、リバーダンスのオファーを受けて、25曲練習したんだが、時間が全然十分じゃなかった。しかも楽譜がなくて耳で習わないといけなかったし…でも、それでも憶えて出かけていったら…とにかくハードな仕事だった。あと政治的なこととかね。お金の話は別として、話が違うじゃないかってことがたくさんあったんだ。それに、結局デイヴ・マネリィじゃなくて、単なるメンバーの一員なわけだし。ああいうショウは、音楽に対する愛情がないし。彼等が国際的にやったことは素晴らしいと思うよ。アイリッシュ・ダンスの文化の一つだと思うし、マーティン(オコナー)とか…彼はリバーダンスの最初のアコーディオン奏者だったわけだけど、彼は素晴らしいものを作り上げたと思うよ。でも、結局のところ、僕の心はそこには入っていかないんだ。僕がやりたいのは、このCD(『スウィング』)にレコーディングされたものであって。次のアルバムも同じ路線で作ろうと思っているんだけど、これが僕のアイディアであり、自分の心があるところなんだよ。
――ライナーによると、ダブリンに来たとたんに、いろんなミュージシャンから声がかかったらしいけど。つまり自分で営業しなくてもよかったってことだよね。それはつまり、既にメイヨーで、コンテストに出て優勝するとか、バンドで有名になるとか、そういった活動があったということですか。
D いやー、なんでだか、自分でも全然わからないんだけどね。メイヨーにいると、200マイル先のことって、全然わからないんだよ。アメリカや日本にとっては200マイルってなんてことないんだけど、アイルランドでは大きな距離で…アイリッシュ・ミュージックのコミュニティなんて、小さくて…メイヨーなんかに誰も来やしないよ。最初にダブリンでカレッジに入った時、僕の最初の音楽的イントロダクションは、そのカレッジの先生にニーヴ・パーソンズがいたことだったんだ。で、彼女のアコーディオン・プレイヤーが、ソーラスに入ったので、僕が彼女のバンドに入った。で、そのポジションに6年いた。その6年間の間に、他の人たちと出会った。たとえば、チーフテンズのアルバムにゲスト参加したのは、マット・モロイが誘ってくれたんだ。デ・ダナンは、マーティン・オコナーが、フランキー・ギャヴィンに僕のことを紹介してくれたんだよ。だから、なんというか、人がどんどん紹介してくれて…僕の方から「僕ミュージシャンなんです、一緒に演奏させてもらえませんか」とか、言ったことはない。友だちには、セッションにたくさん参加すれば有名になれるって言われたんだけど、それはしなかったね。セッションで演奏されている音楽は、僕にとっては、なんでもなかったね。 だったら、なんでそんなのに参加しなきゃいけないんだ!って感じで。で、僕は最終的に学んだ。何かをとことん信じていれば、それは現実になるってことを。全然急がなかったけど、実際こうなったし。このデビュー・アルバム『スウィング』を作る前にも、アルバムを作らないか、というオファーが2社からあったんだよ。両方ともポシャっちゃったけど、最終的には、一番いいレコード会社と契約することができた。おばあちゃんがよく言ったように「待てば、向こうからやってくる」ってことだね。古いことわざだよ。日本語でもあると思うけど。もし、あなたが何かを望んでいて、それを強く信じていれば、かならず現実になる、ということだよ。
――デ・ダナンに加入したのって、正確にはいつですか?
D 去年の6月から。デ・ダナンでは、今は、だいたい毎年3、4月くらいから9月くらいまで活動している。年の半分は、フランキーがアメリカのヴァージニアにいるからね。彼がアイルランドに帰って来た時、ギグをやるんだ。デ・ダナンは、今はだいぶ変わって、 アコーディオンなしでやる時もあるし。デ・ダナンは、僕がまさに聴いて育ったバンドだから、それに参加するのはすごく意味のあることだ。7才くらいからずっと好きだったんだから、そういった人たちに誘われるのは、ね。
――やっぱりデ・ダナンは、お気に入りのバンドだったんだ。
D もう絶対そうだね。彼等は僕が一番興味を持っている音楽を演奏していたしね。1920年代の音楽をね。僕が本当に興味を持っているのは、その時代の音楽なんだ。
――フラナガン・ブラザーズとかでしょ。
D そう、フラナガンズだよ!(と、大興奮)。僕は、マイケル・コールマンとかジェイムズ・モリスンとか、そういう昔のフィドル奏者の演奏を探っていって、1920年代に行き着いた。最初、デ・ダナンの『ボールルーム』を聴いて、そこでフラナガン・ブラザーズのことが書いてあって、「これは誰だ」って調べて、やっと見つけてアルバムを聴いたってわけだ。
――なるほど。あなたがデ・ダナンのメンバーだというのは、僕にとってはすごくリーズナブルなことに思えます。というのは、デ・ダナンは、この25年の間…僕の意見ですけど、アイルランドで最もスウィングするバンドだと思ったんですね。その、アイルランド一のスウィング・バンドにあなたが入ったというのは、ものすごくリーズナブル。おそらくフランキーは、あなたのスウィング感が、デ・ダナンにドンピシャだと判断したんだと推測するんですけれど…。
D 1920年代というのは、アイリッシュ・ミュージックにとって、特に有名な時期じゃないんだよね。多くの人が、1600〜1700年代にオキャロランがいて、その次が1960年代のドーナル・ラニーたちだと思っている。その間がないんだ。彼等は、その間に起こったことを全然評価していないんだよ。たとえば、多くのアコーディオン・プレイヤーたちが、ジョン・J・キンメルのことを知らないんだ。彼は、1906年に最初の商業的なレコーディングをした重要なアコーディオン奏者なんだ。彼はオーストリアン/ジャーマン系のアメリカ人で、ジグをワックス・シリンダーの上に二曲、初めて録音した。それを僕はすごく尊敬している。
マット・モロイのセッションに行った時、そこに、ダブリンからだかイングランドからだか、もしかしたらアメリカからだかのミュージシャンがたくさん来てて、マットが演奏したんだけど、彼がやっている曲を、みんなは、彼が書いたもんだと思ってるんだよ!。マットがやった曲は、既に80〜90年前にレコーディングされているものなのにさ。みんな、60年代になってこういった伝統曲が書かれ
出したと思ってるんだよね。はっはっは!
――戦前の音楽を追求しはじめたのは、割と大人になってからですか? 『ボールルーム』はたしか87年でしょう。だから11才? その頃から、掘り下げはじめたんですか。
D そうだね。でもその前から、おばあちゃんのレコードとか聴いて知っていたからね。おばあちゃんの息子や娘でアメリカにいる人たちがいて、おばあちゃんがアメリカに行くたびに、お土産でレコードを買ってきてくれたんだけど、あの『ボールルーム』も、確か空港で買ってきてくれたんじゃなかったかな。おばあちゃんもあのアルバムが大好きだったんだ。マーティン・オコナーとフランキー・ギャーヴィンが一緒に演奏するのを聴くのはすごく楽しかった。頭をゆすったり足を踏みならしたりしながら、おばあちゃんは、それはそれは楽しそうに笑いながら聴いていた。なんというか、音楽を演奏するということだけじゃなくて、音楽を生きているって感じがしたんだ。そして、それが音楽にさらに聴かせるんだ。音楽を楽しみ、スイングするために、あのアルバムはある。おばあちゃんが楽しんでたのは、そこだと思うんだ。彼女には、そこにエネルギーが見えていたんだと思う。洋子(ミュージック・プラント主宰者)が前に言ってたように、エネルギーだよ。デ・ダナンにはエネルギーがあった。今は、前の彼等とだいぶ違っているけどね。
――自分もメンバーなのに、すいぶん正直だね(笑)。
D 僕は真実を語るので(笑)。でも僕は、その昔のオリジナルを追求するっていうアイディアが好きなんだ。
――フラナガンズに代表される昔のアイリシュ・ミュージシャンが持ってたもので、今やっている現役のミュージシャンにないものって、たとえばどういったものだと思いますか。
D ふぅー(とため息)……(しばらく考えて)Maturity(円熟度)かな。60年代の人は、演奏はできる、例えばドーナル・ラニーとかマット・モロイは、すごいうまいんだけど…たとえばマット・モロイを例にあげてみよう。彼は60年代に演奏を始めた。でも彼は20年代の音楽を聴いて学んできた。トミー・ピープルズも、ジョン・ドハティの音楽から学んだが、彼等はすべてマイケル・コールマンから習った。フィドル奏者でマイケル・コールマンを聴いたことないって奴もいるんだぜー。マイケル・コールマンはすごく重要な人物だ。1920年代のフランキー・ギャーヴィンだ。でも、全然知られてない。
フラナガン・ブラザーズは、たとえばユダヤ系のクラリネット奏者をバックに演奏している。こういったミックスが彼等の音楽を素晴らしいものにしている。彼等のそういうところが僕は好きなんだよ。僕が自分のアルバムで何曲か、リッチー・バックレーにサックスを吹いてもらったのも、同じアイディアなんだよ。サックスが曲の後ろで、まるで織りものを織るようにメロディを奏でている。でも、たとえば4曲目の曲なんて、スロー・エアの間にサックスのソロをいれたんだよ。それはまったく違ったものだ。1920年代にもなかったことだ。だけど、このことが、彼等との繋がりを持っている…つまり、フラナガン・ブラザーズがまだ存在していたら、きっとこういう風にやっていたんじゃないかなって僕は信じているんだよね。違うかもしれないけど。
また、当時の楽器なんて、今と比べて、そんなにコンディションも良くなかったはずなのに。アコーディオンなんて、当時彼等が使っていたものなんて、演奏するのがすごく難しい楽器だったんだ。それなのに、みんな今のアコーデォン奏者が演奏できるみたいに、独自のノリがある。当時のフィドル奏者なんて、ダダディダンダンダン〜、とフランキーが演奏するみたいに演奏しているんだけど、それが20年代の演奏であり、また60年代の演奏なんだ。そういうのが好きじゃない人もいるわけだけど、これが、僕の好きな音楽なんだ。アコーディオン奏者たちなんかすごいよ。アコーディオンを、バンジョーとかドラムみたいに使うんだよ。素晴らしいよね。
――あなたは地元のケイリー・バンドに参加したことはありましたか?
D あったよ。ピアノをよく演奏してた。地元のケイリー・バンドに飛び入りしてた。
――ケイリー・バンドでの経験があなたの表現につながっていると、考えますか。
D そうだね。リズムと、それからコードとカラー。伴奏。曲からコードを引き出そうとするんだ。そこにはないかもしれない、コードを。ギャーヴィンなどにも言えることだけど、つまり自分の考えを、そこ(コード)で表現するんだよね。そこで、たくさんのことを言うことができる。何人かの演奏家は、単純なコードをキープしたままで気にしないけど、なんか、こう、こだわる連中もいるんだ よね。「ここでディミニッシュはどうだ?」とか、「7thはどうだ?」とか。コードを違う視点でとらえたいんだ。それがカラーだと思う。ジャインゴ・ラインハルトのリズムとトーンなんか、デジタル的にクリーンじゃないんだけど、素晴らしく温かいサウンドが得られる。
――前から思ってたんだけど、ケイリー・バンドって、下手なバンドは、単なる田舎の楽団なんだけど、うまいバンドは、ほんとにスイング感があるんですよね。僕は最初あなたの演奏を聴いた時に、絶対に子供のときにケイリー・バンドやってたんじゃないかと思ってね。
D そうなんだよ。うまいケイリー・バンドにはスインギーである必要があるだ。ケイリー・バンドのバック・ボーンというのは、ピアノなんだけど…最初のアイリッシュ・ミュージックのピアノ・プレイヤーというのは、アイリッシュじゃなかったんだよ。彼等はジャズの演奏家たちだったんだ。ジョン・モラーは、ジャズ・プレイヤーだった。彼はモニハンやマイケル・コールマンと一緒に演奏した。つまりピアノにアイルランドの伝統的な演奏スタイル、という のはないんだ。
――アメリカの初期のジャズというのは、アイルランドのケイリー・バンドとも密接なつながりを持ってますよね。
D うん、きっとそうだね。だって、アイルランドから音楽家が渡って行ったわけだから。1910年から20年にかけて。
でも実際、“アイリッシュ・ミュージック”というのを作ったのは、大きなレコード会社だったと僕は思う。彼等がサウンドをキャッチーなものにしてマーケティングしたんだと思う。今も同じだけど。コロンビアとかビクターとか、当時の大きなレコード会社たちだ。彼等はたくさんのアイリッシュ・ミュージシャンをかかえていた。でもバックを固めるものがなかった。どうしたらいいんだろう? 当時のバックといったら、ジャズだった。でもジャズ・ミュージシャンたちはアイリッシュ・ミュージックなんて聴いたことがなかった。それから、たとえばジューイッシュのクレズマー・バンドがあった。フラナガンのバックをやったような。三本のクラリネットとかそういう編成だ。彼等もアイルランドの伝統音楽なんて聴いたことがなかった。ジューイッシュ・ミュージックとアイリッシュ・ミュージックはどっかで繋がっていると思う。どちらも苦難の道乗りから生まれた音楽であるし。だから彼等は、アイリッシュのバックをやるのに抵抗がなかったんじゃないのかな。(ジューイッシュである)彼等の音楽に対するアプローチが、アイリッシュ・ミュ
ージックのそれにとても近かったんだと思う。またピアノに戻ると、ジャズとアイリッシュ・ミュージックも非常に相性が良かったんだろうね。
――あなたのこのアルバム『スウィング』を聴くと、アイリッシュの伝統音楽と、ジャズ、クレツマー、ブルー・グラス、カントリーそういったこの100年間の大西洋を挟む交流というのが、すべて凝縮されているように感じるんですよ。
D わぁ、ありがとう。そう言ってもらってうれしい。とにかく音楽は音楽だから。何かいいと思うものを演奏して、それについて幸せであるならば…。音楽について、嘘を言うことがあるかもしれないけど、でも楽しんでいるかぎり、それは音楽だし、とにかく演奏するってことだと思う。
――シャロン・シャノンは、あなたより10才くらい年上で、でも彼女もまだまだ若いわけだけど、その20代、30代の中堅若手のミュージシャンと、リヴァイヴァル第一世代、ドーナルとか、そのへんとの表現の質の違いを感じることはありますか。
D I think.....
――それはギャーヴィンにも訊きたいんだけど。
G アイルランド音楽の素晴らしいところは、とにかく座って…すごく若いミュージシャン、たとえばデイヴみたいなミュージシャンが、チャーリー・レノンみたいな若くないミュージシャンと交流できるってことだ。僕らはすごく上手に対話ができるし、お互いのスタイルを尊敬しあっている。シャロンのスタイル、ドーナルのスタイル、デイヴのスタイル、チャーリー・レノンのスタイル、全部を合わせることも可能だ。地域的な違いはあるかもしれないけど。だけど、ほとんどの人が一緒に演奏できるよ。
――じゃあ、世代によっての違いというのは、ないのかな。
G アイルランド音楽においては絶対にないね。
D たとえば、僕の弟のキーランは15才だけど、チャーリー・レノンと一緒に同じ音楽を演奏できる。今の若いミュージシャンにいえるのは、上の世代のミュージシャンたちが若かった頃よりも、ずっとずっとうまくなっていることだね。これは事実だ。演奏のスタンダードがすごく高くなっているよ。15〜16才の子なんかすごくうまい。これからも、ますます上がっていくんだろうね。音楽に対する人々の認識も、だんだん高く、良くなっていくんじゃないかな。
G 根本的に、ソロで演奏する時にはそれほど感じないけど、伴奏という意味では、だいぶ違うと思う。基本的なメロディっていうのが、アイルランド音楽の基礎なわけだけど。
D それから、過去に対する尊敬の気持ち、だろうね。前のジェネレーションの演奏家たちに対する、尊敬。先週、昨年、10年前は、こうだった、こう演奏されていた、こう書かれた、という尊敬の気持ち。音楽が来たところを尊敬する気持ち。
――二人の最初の出会いというのは、ニーヴ・パーソンズのバンドですか。
G そう。
D 僕らのいい友だち(笑)、ニーヴだよ。4年前、RTEのキャンティーン社員食堂で出会ったんだよ。
G そう、そう、そう!!
D TV番組だったな。なんていいったっけ、番組名は。ドラマーが良かったよなー。あいつ、なんていったっけ。
――ギャーヴィンはこのアルバムのプロデューサーでもあるわけだけど、あなたはこのアルバムのプロデュースにあたって、特にどういう点に気をつけましたか? 特に、デイヴのどんな魅力を引き出そうと思ったの?
G デイヴがやりたいと思ったことを現実にしただけさ。デイヴには最初からヴィジョンがあって、僕が絵を書いたようなもんさ。とにかく彼から、他のみんなからも、ベストの演奏を引き出すこと。単純な話さ。デイヴのアルバムだから、アイディアはすべてデイヴのものさ。だから「こうしたい」、「わかった、それを実現させよう」、みたいな感じだ。
D とにかく、僕がやりたいことをすべてギャーヴィンに話して、それで…家を建てるみたいなもんさ。僕はこういう部屋がほしい、ああいう部屋もほしい、トイレがここで。で、さて、じゃあ建てて!って。それがプロデューサーってもんだ。
G まあ、みんなが気持ちよく楽しく演奏できるようにがんばった。すごくリラックスして、楽しんでくれるように。そうすると一番いいものができるはずだ。
――アイルランドではいつリリースされたの?
D (2001年)10月かな。
G 11月じゃない?
――つい最近だね。
G えっと、日付け、わかるぞ。11月11日だ!
――リリースされて、この3ケ月ほどの評判はどうですか。
D I don't know...
――(野崎洋子)でも有名なラジオに出たじゃない?
D Oh!そうだね。あとTVも出た。「Pat Kenny show」という有名なTV番組に。でもセールスは分からないなぁ。TVに出てもね
ぇ、いったい誰が買うんだろうねぇ。
――新人のアルバムにいきなりテレビが取材に来るっていうのは、やっぱり相当注目を浴びているということですよね。
D Oh Yes。TV、先週もやったんだけど、ちょうどダブリンまで運転している最中に、同じTVショウがもう一度出てくれって言ってきたんだよ。こういうのって、すごく珍しいんだよ。
G ほんと、聞いたことないよ。すごい珍しい。だいたい一年に一回くるかこないかの話だよ。
D TVの人とかラジオの人とか、みんな気に入ってくれているんだけど、結局は普通の人に売っていかないとね。どうなっているか、結果が知りたいよね。
――次のソロ・アルバムで、どの国の、どんなにビックなミュージシャンでも、そしてトラッドに限らずロックでもジャズでも、どんなミュージシャンをゲストに迎えてもいいってことになったら、誰と一緒にやりたいですか。
D はっはっはーー!!(と大笑いして)、でも基本的に、ダラ・ブラッケン(フィドル)とギャーヴィンだな。フィドル、ボックス(アコーディオン)、ギター。あと弟も参加するかもしれないけど、この三人が基本なんだ。変えるところがあるとすると、もしお金があれば、憧れのミュージシャンとも一緒に演奏したいな。たとえば、アンディ・スタットマン(クレツマー系のクラリネット奏者)とか。
――うんうん。
D それから、マンドリン奏者のデイヴィッド・グリスマン。それからマーティン・モリー。フラナガン・ブラザーズの曲を4弦バンジョーで演奏する人なんだけど。あとフランキー・ギャーヴィンとも一曲、一緒にやりたいね。だけど、結局(次のアルバムも)変わらないよ。このアルバムは、洋子にも言ったんだけど、これ以外に本当に考えられないような作品だよ。アイルランドで、ダラ彼以外にこんな風に演奏できる奴はいない。コークでギグをやった時、ダラが勉強があって参加できないことがあったんだけど、その時、彼がこのアルバムでやったことの半分も演奏できないフィドル奏者ばっかりで、苦労したんだよ。3〜4人のフィドル奏者に電話したんだけど、全然ダメだった。彼等は全然演奏できなかったんだ。ギターにしたって、誰がギャーヴィンのように演奏できるんだ。だから、これに関しては、このまま行く。そして、聴いてくれた人が気に入ってくれるといいな、ってところだね。
――最後の質問です。最も多く回数を聴いたアルバムを教えてください。何枚でもいいし、トラッドじゃなくてもいい。
D やっぱり『ボールルーム』。君も大好きなの? それはよかった。あとポール・ブロックとフランキー・ギャーヴィンの『トリビュート・トゥ・ジョン・クーリー』もすごい好きだし、ステファン・グラッペリとかも。でもやっぱり、『ボールルーム』だね。
G うーん、なんだろ。オレは絶対にロックだよ。トラッドなんか聴いてなかったから。
――(野崎洋子)ヴァン・ヘイレンじゃないの?
G 違うよ!(笑)
D ニーヴ・パーソンズか?(笑)
G うーん、なんだろ。難しい質問だな。700〜800枚CD持ってるからなぁ…たとえば、トム・ペティの『ワイルド・フラワーズ』とか、フランスのエールというバンドの『ムーン・サファリ』。それからピンク・フロイドの『狂気』。ベグリー&クーニーのアルバムにはすごい影響を受けた。僕のバイブルだ。それにジャンゴ・ラインハルトとステファン・グラッペリのフランス・ホットクラブ五重奏団の作品とかだね。
2002年2月15日 渋谷ルノアールにて