リチャード・ウッド電話インタビュー
インタビュアー:茂木健
日時:2001年4月3日
――手元にあるあなたの略歴は、非常に簡単なものなんですが、それによるとあなたは、“1978年プリンス・エドワード島生まれ”となっています。でも、プリンス・エドワード島は決して小さな島ではありませんよね。ウェールズとか、へたをするとスコットランドと同じくらいの広さがあるのでは?
「実をいうと、ぼくが生まれたのはオンタリオなのさ。でも祖父がP.E.I.の人で、ぼくが赤ん坊のころ一家で引っ越したんだ。P.E.I.の人口は4万人くらいだな。それほど多いわけではないが、小さくもない」
――お住まいはP.E.I.のどこですか?
「シャーロット・タウン」
――島の真ん中にある街ですね。島内で最大の街なんでしょう?
「そう」
――島内で聴ける音楽は、どれくらい音楽的ヴァラエティに富んでいるんでしょうか?
「けっこういろいろあるね。フィドル・ミュージックだけに限っても、複数の音楽文化が島内に共存しているのがわかる。島の東側に行けば、ケルティック、つまりスコットランド系とアイルランド系の音楽が聴けるよ」
――西側は?
「西側はアケイディアン/フレンチだ。西部のスタイルはケベックに近い」
――ケベックのフィドル・スタイルに?
「そのとおり」
――言葉もフランス語なんですか?
「そう、フランス語だよ」
――もちろん、あなたは島内の英語圏、というかケルト圏に属しているわけですよね。
「ああ。シャーロット・タウン、つまり島の真ん中から東が英語圏だからね。西に行くほど、フレンチ色が濃くなる」
――さっき言及した略歴によると、あなたは11歳でフィドルをはじめて、12歳で最初のフィドル・チャンピオンシップを獲得したとなってます。これは、非常に興味深いんですよ。つまり、わずか一年で完全にマスターできるほど、フィドルは簡単な楽器ではないと思うんです。
「そうだね。すごく難しい楽器だ」
――めちゃくちゃ練習したんじゃないですか?
「ああ、練習はたくさんしたよ。でもぼくは、それなりの音楽的才能に恵まれていたんだと思う。誰もがその人だけの才能をもっているだろ、ぼくの場合は、それが音楽だったわけだ。確かに練習は一所懸命やった。でも、自分でやりたいと思ったことだったから、同時に、すごく愉しんでもいたのさ」
――たとえそうだったとしても、11歳の男の子が伝統的なフィドリングに興味をもち、それに本気で取り組めたという背景には、きっと何かあったと思うんです。なんらかの環境が整っていなければ、退屈もせずモーティヴェイションを保てるはずがないと。そんな環境があったとしたら、それはどのようなものだったんでしょうか? あなたのご家族もフィドルを弾いていたんですか? それとも近所の人たち?
「最初はダンスだったんだよ。すごく小さかったころに、ぼくは伝統ダンスを習いはじめた。P.E.I.の伝統的ステップ・ダンスをはじめたのは、7歳のときだったな。そしてステップ・ダンスの伴奏は、フィドル音楽が主体だった。だからぼくも、フィドルに興味をもつようになったのさ。フィドル音楽は常に聴けたし、フィドラーは周囲におおぜいいた。昔は大人が弾いていたけど、今では若い人や子どものフィドラーもたくさんいるよ。特にP.E.I.は若いフィドラーが多いな。素晴らしいことだと思っている」
――7歳でダンスをはじめたあなたが、踊れる場所はどれくらいあったんでしょう? パブとか、コミュニティ・ホールとか……
「うん、最初のうちは、主にダンス・コンペティションで踊っていた。コミュニティ・ホール、フェスティヴァル……。ちょうど盛り上がりはじめていた頃でもあったし、踊る機会はいくらでもあったんだ。ちょっとしたジャズを伴奏に、タップ・ダンスまでやったしね。とはいえ、ぼくの主な関心が伝統的ステップ・ダンスであることに変わりはなかったけど」
――そのような催しとかコンペティションを企画・運営していたのは、どんな人たちだったんでしょう? アイルランドにおけるコールタス・キョールトリ・エーラン、CCEみたいな団体があったんですか?
「いや、そういうわけではない。毎年恒例のダンス・フェスティヴァルがいくつかあったし、ダンスを教える先生はたくさんいたけれど、ちゃんとした学校はもとより、中心となるような団体もなかったんだ。自治体などからの資金援助も、まったくなかったしね。それでもなお、伝統的ステップ・ダンスは、文化現象としてすごく盛り上がっていたのさ」
――すごく健康的な状況があったみたいですね。
「そうとも」
――ダンス教師とか地元の普通の人たちが、その種の催しをヴォランティアとして運営していたわけですよね? そしてその催しに、やはり普通の人たちが集まってきた……
「そういうこと」
――ご家族にミュージシャンはいらっしゃったんですか?
「えーと、母親はピアノを少し弾いたし、父親もフィドルをいじっていたけど、特別うまくはならなかったな。単なる趣味だった」
――お話を聞いていると、たとえ1980年代であっても、P.E.I.でプロのトラッド・ミュージシャンになるのは、決して簡単なことではなかったみたいですね。
「そのとおり」
――次に、P.E.I.におけるフィドル・スタイルについて質問しようと思っていたんですけど、すでにお答えの一部はいただいてますね。東側がケルト圏で、西側がフランス文化圏……このふたつの文化は、なんらかのかたちで混じり合っていたんでしょうか?
「文化が?」
――つまり、スコットランドやアイルランドの影響を受けた音楽と、フレンチ/アケイディアンの影響を受けた音楽が、という意味です。
「そうは思わないな。完全にひとつになっていたとはいえない。どちらの音楽も、非常に特徴的だからね。ぼく自身は、両方のスタイルを覚えたよ。島の西側に行っても、フランス語を話す人たちと一緒にアケイディアンやフレンチ・チューンを演奏できた。すごく面白いんだ。だけど、島の東側で毎年夏に行なわれる(複数の)フェスティヴァルには、全島からミュージシャンが招かれた。だから、ケルティック/アイリッシュだけでなく、両方の音楽とダンスが愉しめたのさ。音楽スタイルは非常に異なっているんだけどね」
――なるほど。全体像が、だんだんはっきりしてきましたよ。
――あなたは、ご自身のアルバムでJ・スコット・スキナーとニール・ガウの曲を取り上げてますよね。スコティッシュ・フィドル・ミュージックのこの二大巨星は、いまだにP.E.I.の東側では人気があるんですか?
「ああ、すごく人気があるね。遠いむかし、イングランド、スコットランド、アイルランドから人びとがプリンス・エドワードに渡ってきたとき、このふたりの曲も一緒にやってきたから。バグパイプ・チューンもたくさん入ってきたんだよ。いずれにせよ、スコット・スキナーの曲は今でもすごく一般的だね。はるか昔から定番になっているので、それと知らずに演奏している人もたくさんいるくらいだ。誰が作曲したかなんて、まったく意識していない」
――スコット・スキナーは厖大な数の曲を出版すると同時に、フィドル教本もたくさん出してますよね。ぼくも、彼の教本で『A
Guide to Bowing』という本を持っているんですが、すごく堅苦しい印象を受けているんです。“ジグを演奏するときはダウン/アップ/ダウンの弓使いを守れ”みたいな調子で、生徒たちに厳格な弓使いを要求している。あなたも、そのように厳格なメソッドでフィドルを習ったんですか? それとも、アイリッシュが普通にやっているように、もっと自由なスタイルで学んだんでしょうか?
「うん、ぼくは自由なスタイルで学び、演奏してきた。そっちの方が好きなんだ。個性が出せるし、勉強していても気分がいい。音楽が自然に流れていけば、自分の心――ソウル――を表現しやすいだろ。だから、ぼくは弓使いをそれほど気にしなかった。音楽がもっと素敵に聴こえればいいと、それだけに集中してきたよ」
――このふたり、スキナーとガウは、ケイプ・ブレトンでも人気があると思うんですが……
「ああ。すごく人気がある」
――P.E.I.とケイプ・ブレトンの関係は、どれくらい密接なんでしょう?
「かなり密接だな」
――たとえば、ケイプ・ブレトンのフィドラーやダンサーも、P.E.I.のフェスティヴァルに招待されるんでしょうか?
「もちろんさ。ふたつの島は、本当に深く結びついているから」
――かれらは、どうやってP.E.I.に来るんでしょう? 船か飛行機ですよね?
「飛行機、船、どっちを使っても来られるよ」
――時間はどれくらいかかります?
「船で? 船なら1時間半。75分で着く」
――ミュージシャンが大挙して来られるんだったら、交通費はそれなりに安いんだろうと想像しますが。
「そうだね。船賃は35ドルくらいだから、決して高くないな。けっこう安く行き来できる」
――80年代後半にフィドルを弾きはじめたとき、あなたはすでに数多くのチューンを知っていたわけですよね?
「そう」
――その頃はすでに、たくさんのプロのトラッド・バンドが、伝統曲をそれぞれにユニークなやり方で演奏していました。スコットランドであれば、バトルフィールド・バンドとかタナヒル・ウィーヴァース、アイルランドならボシー・バンド、デ・ダナン等々……こうしたプロのミュージシャンたちの演奏を、熱心に聴いたことはありましたか?
「あー、フィドルを習いはじめたころに、少しは聴いたよ。だけど、まだ初心者だったぼくが熱心に耳を傾けたのは、ぼくの周りにいるフィドラーたちだったのさ。ボシー・バンドとかに、ムキになって入れ込むということはなかった。後年になって腕が上がってから、改めて聴きなおしたけどね。P.E.I.だけでなく、ケイプ・ブレトンにも素晴らしいフィドラーはごろごろいたから、そっちの人たちの演奏ばかり主に聴いていたな」
――身近でいい演奏が聴けるのだから、特定のバンドにこだわる必要がなかったというのは、想像できるような気がします。
「そういうこと」
――あなたのアルバムを聴いていても、ぼくは、あなたに影響を与えたフィドラーとかスタイルの名前を、まったく特定できないんですが……
「ぼくのフィドル・スタイルには、様々な要素が混じっているからね。スコティッシュとアイリッシュは間違いなく混淆しているから、主力はケルティックだけど、それだけじゃない。それでも、特に強い影響を受けたプレーヤーはいないんだよ」
――あなたと似たような印象をもつ演奏をするフィドラーとして、ぼくはデイヴ・スウォーブリックを思い出すんです。あなたのフィドリングが多くの要素を含んでおり、特定の地域のスタイルに限定されにくいのと同様、スウォーブリックの演奏も混血度が非常に高い……
「なるほど」
――P.E.I.やケイプ・ブレトンを含むカナダのフィドラーを、あなたはおおぜい聴いてきていると思うんですが、残念ながらぼくは、P.E.I.のフィドラーについて、あまりよく知らないんです。正直なところ、最近出てきた人たちは別にして、往年の偉大なカネイディアン・フィドラーも少ししか聴いたことがない。せいぜい、ジョゼフ・コルミエとアレックス・フランシス・マッケイくらいでしょうか。あなたのお好きな、P.E.I.やケイプ・ブレトンのフィドラーの名前を教えていただけませんか?
「ケイプ・ブレトン北部出身のフィドラーで、1950年代から60年代にかけてすごく人気があった人がいて、彼のフィドルは大好きだったね。ウィンストン・スコティ・フィッツジェラルドという名前だ。スコティッシュ・スタイルのフィドラーとしては、いちばん有名な人だった。フィドルを習いはじめたころのぼくに、最大の影響を与えた奏者だね」
――レコードは出ているんでしょうか?
「かなり出してるよ。CD化もされてる。でも自主レーベルからなので、こっちのCD屋では簡単に買えるけど、世界的に配給されているわけではない。ネット・ショップからなら、買えるんじゃないかな」
――そこが、インターネットのすごいとこですよね。
「ああ、本当にそう思うよ」
――スコティ・フッツジェラルドさんは、まだ生きてるんですか?
「いや、76年に死んだから、残念ながらぼくは会えなかった。彼のレッスンが受けられなかったのは、悔しいね」
――伝統音楽以外の音楽は? ロックンロールやポップは聴かなかったんですか?
「聴いたさ。ぼくが特に好きだったのは、ジャズだけどね。ジャズ・ヴァイオリンも聴いたよ」
――ステファン・グラッペリとか、ジョー・ヴェヌーティとか?
「そう」
――12歳でフィドル・チャンピオンになってからの話を聞かせてください。ファースト・アルバムを録音したときのあなたは、まだ10代だったと推測しているんですが……
「13歳だった」
――え?
「ファースト・アルバムだろ? 今はもう廃盤になっているし、再発の予定もないけど、録音したのは13歳のときだ」
――あなた名義のアルバムなんですよね? つまり、その他おおぜいのひとりではなかったんでしょ? いきさつを聞かせてくれませんか? チャンピオンになったから?
「そう、まだ子どもだったけど、アルバムを作れるくらいにはなっていた、ということだな。いま聴きかえしてみると、あちこち気になるところはあるよ。ぼく自身が音楽的に成長してきたんだから、これは当然だね。ファーストのタイトルは『Cutting
the Bow』というんだ。“トリプレット(三連符)を演奏する”という意味の熟語」
――ボウド・トリプレットですね。
「そうそう」
――アルバム・タイトルから想像するに、伝統曲だけを演奏した作品みたいですが……
「ああ。ファーストは非常に伝統的だ。使われている楽器は、フィドルとギターとピアノだけ」
――カナダだけでなく、アメリカでも売られていたんですか?
「アメリカへは、ほんの少し輸出されただけだった。あのファーストを再発するつもりはないよ。今のぼくは、『Fire
Dance』と『Come Dance With Me』に力を注いでいる。この2枚は、世界各地で配給されはじめているからね」
――その2枚に先立つセカンドとサードは、どんなアルバムだったんですか? 申し訳ないんですが、持っていないもので……
「それはしかたないよ。セカンドとサードも、すごく伝統的。収録曲が違うのは当たり前だけど、楽器編成もファーストと同じだしね。よりモダンなことをやってみたのは、『Fire
Dance』が最初だ」
――そういえば『Fire Dance』のなかに、〈キムラ〉という奇妙なタイトルの曲がありますね。この曲名の由来は?
「ぼくの友人の名前なんだ。東京から来た人で、キョウ・キムラという女性。夏休みにP.E.I.へ遊びに来た彼女と、ぼくは友だちになった。東京に帰った彼女は、ぼくの昔のアルバムを聴いた感想を、手紙に書いて送ってきてくれた。どれほど、この音楽とぼくの演奏が、彼女を感動させたかってね。それを読んで、ぼくのほうがぐっときちゃって。だからあの曲を書いたのさ」
――次のアルバムについて聞かせてください。
「プランは少しずつ立ててるよ。今は曲作りをしている段階だ。次のアルバムも、前作とどこかしら似たような作品になると思う。モダンな雰囲気を加味しているという意味でね。だけどまだ、どんな作品になるといえる段階ではないな」
――いつごろリリースする予定でしょう?
「今年中には出したいね。夏以降、早ければ9月くらいに」
――あなたの来日前に聴くことは不可能というわけですね。
「ぼくが次に日本に行くまでには、きっと聴けるはずだ」
――さて、最後の質問です。チーフテンズと出会ったいきさつを教えてください。
「かれらと初めて会ったのは、デンマークだった。ごく短時間だったけどね。ぼくは自分のバンドと、かれらはもちろんチーフテンズとして、大きなフェスティヴァルに一緒に出演した。トナー・フェスティヴァルという大イヴェントだ。その後、ぽつぽつと連絡を取っていたんだけど、去年になってぼくのブッキング・エージェントが、チーフテンズと行動を共にしてみないかといいだし、ぼくもその話に乗った。それでかれらも、ぼくにツアーへの同行を正式に依頼してくれたわけ。アメリカ・ツアーを一緒に終えたばかりだよ」
――デンマークのトナー・フェスで初めてかれらと会ったのは、何年のことでしたか?
「1997年だったな」
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