ジョン・スピラーン・インタヴュー
Q(大島豊):パリに行ったことはあるんですか。(インタビューの場所がフレンチ・カフェだったので、この話題からスタート)
J(ジョン):ノモスと一緒にも行ったし、その前、20代の頃、ミック・ハンリィ、マー
ティン・オコナーとも一緒に行った。ぼくはその頃ロックのベースを弾いてたんだけど、腕は良かったので、ある日、ジョン、パスポート持ってるか、明日から
一週間パリに行けるか、報酬はいい、と言うんで行ったんだ。
Q:なるほど。パリについての歌は作りましたか。
J:いや、まだだね。
Q:ところで、あなたの音楽的キャリアについて、そもそものはじめから話していただけますか。
J:OK。子どもの頃からうたうのは好きだった。その点ではみんなと変わらな
い。15歳の時、ギターを始めた。10代を通じてギターの腕を上げていった。16の時、友だちとバンドを始めた。ロック・バンドだ。演奏していたのは、ボブ・
ディラン、ビートルズにニール・ヤング、それにロリィ・ギャラハーだった。かれは地元のヒーローだったから。
M(THE MUSIC PLANT):ああ、かれコーク出身だものね。
J:その頃はロックン・ロールの夢を見ていて、いずれ俺たちは世界に羽ばたく
のだと思っていた。それから学校を出てから銀行に2年務めた。
M:それって、可笑しい。
J:だけど、やはり銀行は辞めて、ロック・バンドの夢を追いかけた。追いかけたんだが、バンドはうまく行かないで、ぼくはバンドを抜けた。まあ、どこにで
もある騒ぎの末だった。その後は、もっとアコーティックな音楽を、自分の寝室
でやるようなやつ、アイリッシュのフォーク・ミュージックをやりだした。そのうちクレア出身のミュージシャンで
Noel Shine というやつと出会った。
Q:CDを一枚持っています。
J:Mary Greene とのやつかい。それはいい。当時ノエル・ブラジルがコークにいて、ノエルはその弟子だった。それで伝統音楽のミュージシャンたちにたくさ
ん紹介してくれた。酒を飲むことも教えられた。(笑)つまり、全部だね。何しろぼくはそれまでロック・バンドしか知らなかったから。ぼくは1961年生まれだ。それで20歳から22ぐらいまでだったと思う、ノエルと一緒に演奏していた。
その後、別のコーク出身のシンガーのジミィ・クロウリーのバンドに入った。その時にはかれはもう最盛期は過ぎていたけど、ふた夏、ベースを弾いた。修行時代だ。ただ、70年代のフォーク・ブームの後で、ポール・ブレディやクリスティ・ムーアは離陸していったけど、ジミィ・クロウリーは下り坂になってし
まった。だけど、とてもオーセンティックなシンガーであり、ソング・コレクターでもある。
そのジミィのバンドに、ジョニィ・マーフィーという男がいた。ジミィ・クロ
ウリー&ストーカーズ・ロッジ時代からのメンバーだ。かれがその頃、アメリカの1930年代の音楽に惚込んでいたんだ。アーヴィング・バーリン、コール・ポー
ターといった、ジャズ風味のアメリカ音楽だよ。それで、ぼくとジョニィとクリス・ハーンの3人で、三部合唱のハーモニーをうたうバンドを趣味の副業としてやっていたんだ。タキシードなんか着てね。(笑)副業だったけど、とても人気があって、スターゲイザーズというそのバンドをぼくらは7年間やった。始めはとにかく楽しみで、笑いながらやっていたんだ。ギター2本にベース、ぼくがベ
ースで、うーとかあーとか、手の込んだハーモニーをやっていた。7年も続いたのは、本当に仲のいい友だちだったし、働き者だったからだ。バーミューダやア
フリカのザンビアにも行った。金持ちたちのために演奏するわけだ。タキシードを着て、上品な音楽をね。始めはそんなことやるつもりは無かったけど、生活のためでもあった。それを1983年から1990年までやっていた。
その一方で、学校自体からの友人で、詩人のルイ・ド・プーアというのがい
て、アイルランド(ゲール)語で詩を書く。彼と組んで、パン・ケルティック・
ソング・コンテストや、ナショナル・ソング・コンテストに応募したり、いろいろのことをやった。TV番組の音楽も手がけた。そうしている中でぼくのソン
グ・ライティングがようやくものになりだした。それがやはり80年代だ。
で、1991年にスターゲイザーズをぬけた。自分の歌を歌おうと思ったんだ。
もっとも、その時にはまだ本当に良いうたは書いていなかった。本当に凄いうた
を書いてうたいたかったんだが、その時にはまだできていなかったんだ。そこで、しばらくの間ジョン・スピラーン&ジョニィ・マカーシィというデュオで活動した。
M:その人ってフルート奏者の?
J:そうだ。
M:だったら、ほらパット・クロウリーと一緒にアルバムを作った人ね。
J:『フールズ・ドリーム』だね。すばらしい音楽家だが、あまり世には知られ
ていない。家族思いの人間で、コークの学校で音楽を教えたりしているからだ。
本当は凄いミュージシャンだ。そこでぼくらは半分うた、半分チューンのライヴをやっていた。ぼくにはそれがちょうど良かった。
それから1992年に、ぼくはとてもエキサイティングな若いバンドに出会った。
それがノモスだ。かれらはコークのカレッジの出身で、ぼくよりも若かった。か
れらは本当に新鮮だった。演奏があまりに速いので、地元の連中は誰もついていけなかった。前からやっていた連中は、あいつらはいいけど、速すぎる、音楽の
フィーリングに欠けると言っていたけど、若さとエネルギーは凄くて、ぼくはそこが好きだった。
かれらの出身はユニヴァーシティ・カレッジ・コークで、ミホール・オ・スー
ラウォーンがそこで教えていた。1960年代にはショーン・オ・リアダもいた。そこではクラシック音楽と並んで、伝統音楽の学位を取得できた。だから、若い音楽家たちの一群がいて、ナイル・ヴァレリィはそのリーダーだった。キリアンの兄だね。
当時のノモスは四人組の伝統音楽のインスト・バンドで、シンガーはいなかった。かれらはぼくにエレクトリックのフレットレス・ベースを持ってくるように
頼んだ。持っていった時のセッションが凄かったんだ。ただでさえかれらは気が
狂ったようになる。7曲も8曲もリールをつなげて、バゥロンのかれは髪を振り乱して、もうみんなすっ飛んでゆく。そこへぼくがフレットレス・ベースで入る
と、もう本当に気が狂ってしまうんだ。それはそれは凄かった。それで、一緒にやらないかと誘われた。
ぼくはソロ・シンガーとしての足場を固めようとしていた時だったから、しばらくの間、副業としてと言うことで参加した。6年近く一緒にやった。それから
ハミングバード・レコードとソロ・レコードの契約を結んだ。ところが向こうは
いろいろ理由をつけて、なかなかアルバムが作れない。それでノモスのアルバムを作ったりしたわけだが、もうソロは出せないんじゃないかと心配になった。トラブルが重なった末、ノモスの二枚目を作った。ノモスはぼくにとってはとても
ありがたかった。ツアーで世界中を旅して回れたしね。
そして33になった時、ぼくのソング・ライティングがものになりだした。急に良いうたがたくさん生まれだした。それまでは1年に1曲とか2年に1曲だった
んだ。それが、ドアでも開いた感じで、毎月一つ生まれるようになった。それが
ノモスがちょうどセカンド・アルバムを作った後だった。ありがたいことに、ノ
モスの先が見えた時に急にうたがあり余るほどできはじめたわけだ。それからとうとうハミングバードのアルバムが出ることになって、それにも2度録りなおす
とか、いろいろ込み入った事情はあったんだけど、とにかく出ることになり、リリースの前日にノモスを抜けた。
だから、ぼくにとってはジョニィ・マカーシィからノモス、そしてソロへと1本の滑らかな、継目の無いスプリング・ボードだったわけだ。それが97年、実際には98年で、以来ソロでやっている。そして今のところとてもうまくいっている。ここ2、3年、良いことがたくさん起きているし、本当にうまく行っている。たくさんのうたを書けたし、セカンド・アルバムを録音したし、他人がカヴァーしてくれるようになったし、カラン・ケイシィがぼくの歌を歌ってくれてて、ステージでうたっているのは6曲もある。ソラスのファーストでも歌ってい
るし、ルイとぼくの歌も取りあげてくれてる。ルイは9年間オーストラリアに行っていたんだが、もどってきて、4、5年前からぼくらはまた一緒に歌を作りだした。カランの新しいアルバムをこないだ聞いたが、2曲取りあげてくれてい
る。あのアルバムはまだアイルランドでは手に入らないんだ。
今はほとんどはアイルランド国内で仕事をしている。妻と15歳の娘もいるし、
家族を大事にしたい。ノモスと一緒の時には、ずいぶん家を空けていたから、今
はアイルランドに腰を据えて、ある程度自分の好きなように時おりあちこちへ短い旅をすることがてきるのは嬉しい。
それからルイと一緒のギグもしている。ぼくが歌って、かれが朗読をする。かれはアイルランド語で書くが、自分で翻訳もする。翻訳を読んでからアイルラン
ド語を読む。かれは詩人だが、雲の上にいるような偉ぶった詩人ではなくて、地
上で懸命に働いている詩人だ。
Q:そうすると、いつ、どのようにしてデクラン・シノットと知りあったんですか。
J:デクランは長い間ぼくにとっての大ヒーローだった。
M:(陰の声)そうかね。
J:ぼくのギター・ヒーローは、ロックではロリィ・ギャラハーだったが、デクランはもっと微妙な、脇役にいて、音楽全体を作ってゆくようなギタリストだ。
コークにいた若い頃、もう一人ヒーローだったのがジミィ・マカーシィだ。かれはぼくの生まれた街出身のソングライターだったから、ぼくは相当に入れ込んだ。かれは今50か51ぐらいだろう。
M:じゃあ、ずいぶん上なわけね。
J:ぼくが10代のころはロリィ・ギャラハーの時代で、その次がジミィ・マカー
シィの時代だった。彼は当るところ敵無しだった。ただ、彼自身はパフォーマー
として成功できなかった。というのも、どういえばいいかな……
M:競馬の騎手だったからとても小柄なのよね。
J:そうだ、だから……うーん、日本のメディアにはこれ以上言わない方がいいだろう。(笑)
M:難しい人なんでしょ。
J:むずかしい。だけど集中力は凄い。ただ、ソングライターとしては良すぎるくらいなのに、成功には恵まれていない。かれは衆に抜きんでているが、レコー
ド会社の重役とかメディアの人たちとうまくつきあえない。かれはあまりにも優
れているので、相手がもの足らないんだ。ただ、ジミィからはとても大きな影響
を受けた。
M:その頃って何がヒットしてました?
J:ぼくが彼を見ていたのは81、82、83年、そのくらいだ。
M:ずいぶん早いのね。メアリ・ブラック以前。
J:以前だ。だけど、もうその頃、後にかれを有名にするうたは大部分を他のシンガーのために書いていた。
Q:「ライド・オン」とかですか。
J:そうそう。かれはその頃コークに住んでいて、ぼくはよく見にいった。「ラ
イド・オン」「ノー・フロンティアズ」「ミスティック・リップスティックス」
その辺をみんな書いていた。だけど、レコードは作ることができなかった。そして、その時、ジミィと一緒にやっていたのがデクラン・シノットだった。あのふたりは実にぴったりの組合せで、それはすばらしかった。
それからムーヴィング・ハーツがやってきた。当時アイルランドで一番わくわくするバンドで、クリスティ・ムーアもいたし、デクランがいた。あれは本当に
凄いバンドで、あれほどのものはその後も見たことがない。その後、ジミィのう
たをクリスティ・ムーアやメアリ・ブラックがカヴァーしだした。メアリ・ブ
ラックが出てきた。デクランはそのバンドにいた。だからジミィ・マカーシィか
らずっとデクランのことは見ていたし、かれはコークに住んでもいた。ただ、デクランはすごく若いミュージシャンにとっては怖かったんだ。ぼくが演奏しているところへデクランが入ってくる、するとこんな顔をするんだ。
M:(爆笑)
J:それにデクランは甘いことは言ってくれない。歯に衣着せないんだ。
M:あ、そうぉ。
J:デクランはものすごく考えている。遊びでものを言わない。いまでも変わらないよ。(笑)だけど、本当に頭がいい。それで初めてソロを作った時は自分で
やろうとしたんだけど、すごく苦労した。それで、始めドーナル・ラニィにプロ
デュースとミキシングを頼もうとしたんだけど、かれはその時忙しすぎたし、ぼくはかれにとっての優先度はずっと下のほうだ。それでデクランに連絡をとって
みた。
はじめデクランは乗り気じゃなかった。駆出しの頃で、まだ持ち歌も少ない時期のぼくを聞いていて、それで大して高い評価はしていなかった。今はおおいに評価してくれているけれど。結局デクランを説得できて、THE
WELL OF THE WORLD を デクランと一緒に作って、とても仲よくなった。セカンド・アルバムの大部分も
やってもらった。ぼくらは3年ほど一緒に活動していたが、その後、道が分れ
た。レコード会社とちょっともめたんだ。EMIアイルランドと契約した時に、
向こうがデクランのプロダクションは気に入らないと言いだした。おかげでぼくの立場はなくなった。ぼくはまるでレコード会社に操られる人形のような気分だった。でもとにかく仕方なく、デクランに向こうがそう言っていることを伝え
て、それ以後、道が分かれた。とは言え、ぼくらは別にトラブルがあったわけ
じゃない。
M:デクランはわかってくれてるわよ。
J:もちろん、かれは十分わかってくれた。で、今はクリスティ・ムーアと一緒
にやっている。
Q:そうそう、ドーナル・ラニィも一緒ですね。
J:そう、本当にすばらしい。かれは全然宣伝が要らないんだ。無くても、チケットは売りきれる。アイルランド中どこへ行っても同じだ。そして、毎晩ぼくの歌を歌ってくれる。"Johnny
don't go" てね。
M:クリスティのDVDすばらしいものねぇ。
J:そうそう、あのDVDはいいね。
M:あなたも出てるでしょ。
J:そうだ、クリスティが一緒にうたわないかと誘ってくれたんだ。すばらしかった。あれはもう2年ぐらい前になるが、自分の歌を歌っていて一緒にやるのが、クリスティ・ムーアがこっちにいて、デクランがこっちにいて、ドーナルが
向こうにいて、本当に夢みたいだった。(笑)それにクリスティは毎晩のように
THE WELL OF THE WORLD は90年代最高のアルバムの一枚なのに、それに見合うほど売れていない、残念だとスピーチしてくれているんだ。クリスティはぼくをおおいに持ち上げてくれた。他にも何人かぼくをおおいに持ち上げてくれた人がい
る。ブライアン・ケネディやジュリエット・ターナー、どちらも一緒にうたったし、それからラジオ・プロデューサーでライターのP・J・カーティスといった
人たちだ。かれらはことあるごとにジョン・スピラーンは凄いぞ、そのことを誰
も知らないと言い続けてくれた。それってある意味で、とてもいいことだ。ゆっくりと知られてゆくと言うのは。
Q:セカンドの "Mysterious Geust" というのはブライアン・ケネディですか。
J:そうだ。ただ、かれはほんの少ししかうたっていない。あれはデクランのスタジオでとったものを、もう一人のプロデューサーのところへ送って合わせたんだ。それでずいぶん目立たなくなっているので、ああいう形にした。もっとも、
みんな気がついているとは思う。
Q:それで、ピーター・オトゥールと知りあった経緯はどういうものだったんで
しょう。
J:新しいレコード会社のEMIは、かれらのおかげでここ2年ほどでずっと名前を知られるようになったわけだけど、かれらがデクランのプロデュースは、80
年代のメアリ・ブラックのアルバムを連想させて、よくないと言いだしたんだ。
もっと今風のにしなきゃいけないと言うわけだ。ぼくはそんなことはできない、
すでにアルバムはできているし、デクランが費用を負担しているし、ぼくはあのプロダクションになんの不満も無いと反論した。で、結局妥協が成立して、向こうはもっと若くて、モダンな曲をやったことのあるプロデューサーを加えること
になった。ところが向こうはデクランに面と向かってそのことを言う勇気がな
い。業界政治みたいなもんだ。そして、ピーター・オトゥールと言うホットハウ
ス・フラワーズのメンバーをプロデューサーとして入れたいと言ってきた。ぼく
はそれまで会ったことが無かった。ただ、誰に聞いてもかれはいい人間だとい
う。そこで、ためしにひとつやってみようと答えた。それでピーターに会ってみ
て、とても仲よくなった。それに確かにかれは新しいものを持込んでくれた。
レコードを作るとなると、ただ曲を作ってうたえばいいと言うわけではなくなる。プロダクションや編曲の専門家にもならなくちゃいけない。しかも、最後の
判断をこちらがしなくちゃならない。例えば、どの曲をラジオ局向けにするか選ぶのにピーターはおおいに力になった。ラジオ向けにピーターにプロデュースし
てもらったわけだ。それはかなりうまくいって、"Dance of the cherry tree"
はほんとによくラジオでかかった。アイルランドで去年の春にもかかったし、今年の春にもよくかかった。
Q:アイルランドにも桜の木はたくさんあるんですか。
J:もちろん。コークに The Loch(湖)と呼ばれている公園がある。湖があっ
て鳥がいたりするんだけど、そこにある通りの両側が桜並木なんだ。しかもみん
な大きな木ばかりだ。4月には、4月の終りにはとてもすばらしい。ここと同じかな、いやちょっと遅いね、2、3週間ぐらい後だ。
Q:ゲール語は第一言語ですか。
J:いや、違う。みんなと同じように学校で習った。ただ、その後もずっと使っ
てはいる。母がコーク西部の出身で、そちらではいまでもゲール語がよく使われ
ているしね。15の時には、ゲールタハトに住み込んでゲール語を習うプログラム
に参加した。シャナヒーを初めて聞いたのもそこだ。
Q:ゲール語で?
J:ゲール語でだ。あれはすばらしかった。それから大学でも専攻した。銀行の
後、ロックン・ロール・バンドをやる前に、大学に通って英語とアイルランド語
の学位を取った。それから友人のルイ、12の時からの親友だが、かれからの感化
も受けている。かれはアイルランド語で書く詩人になった。コークのような都市部出身者として尋常なことじゃない。それにかれもゲール語のネイティヴじゃな
い。
M:すごいねぇ。
J:だから、ルイと一緒にいる時はいつもアイルランドでしゃべるんだ。それにアイルランド語をしゃべる友人も他にもたくさんいる。ここ10年ぐらいでアイル
ランド語の人気が高まってきている。たいへんな変化だ。子どもにゲール語を習
わせる学校がとても人気が高くなっている。アイルランド語でうたっているキー
ラはいい友だちだ。ルイとぼくは一緒にたくさん歌を作っていて、ゲーリック・
ヒット・ファクトリーと名乗っている。だけど、アイルランド語で歌を作っている最高のソングライターはキーラのロナンだ。かれのうたはとても自然で、リズムがすばらしい。
ゲーリック・ヒット・ファクトリーは趣味でやっているんだけど、ゲール語放送局主催のソング・コンテストで2年続けて優勝した。今年は3年連続を狙っているんだ。
Q:ゲーリック・ヒット・ファクトリーとしてアルバムを作るつもりは無いんですか。
J:実はゲール語のうたや詩の朗読を集めた『ゲーリック・ヒット・ファクトリ
ー』とうタイトルのアルバムを作ろうと計画はしている。面白いものにはなると思う。ただ、その前にもう一枚は今までの路線のアルバムを作らなくちゃならな
いし、別企画にしないとな。だけど、一種のコンセプト・アルバムとしてやろうという話はしている。
Q:あなたのアルバムにはアフリカの影響があるように思いますが、あれはあなた自身の意図したところですか、それともプロデューサーが持込んだものなんでしょうか。
J:たぶん、両方混ざっていると思う。デクランはサム・ピアノの使い方を知っていた。たぶん、あれが一番アフリカ的な要素だと思う。それからぼくは1987年
に2週間だけアフリカに行った。驚くべき体験だった。何に驚いたかというと、
まずサイケデリックな色彩だった。あのパターンだ。60年代のサイケの連中、ジ
ミ・ヘンドリックスなんかが着ていたのはザンビアの伝統的衣装だ。そのことに
まず驚いた。それからかれらが演奏している音楽があまりにラテンなのにも驚い
た。ルンバとかがあるわけだ。ザンビア、ジンバブエ、それからあのフランス語を話す国、名前を忘れてしまったが、そこのミュージシャンに訊いたんだ、何で
きみたちの音楽はそんなにラテンなんだ。すると向こうは、ラテンてなんだい、
これはアフリカの音楽だよと答えたんだ。つまりあれはアフリカからアメリカへ
渡ったわけだ。それからあのダンス。アイルランドの伝統的ダンスはどれもフォ
ーメーション中心だ。あるいはジャンプだけでできていたりする。アフリカのダ
ンスはお腹が動く。それもとてもゆっくりと流れるようで、とても感動的だ。そ
の音楽は、祝祭だ、生命力に溢れている。どこの街角でも子どもたちが手を叩い
て踊りながらうたっている。そこらじゅうでだ。何か祝ってるみたいだ。しか
も、みんなとても貧しい。それにひきかえ、ふだんぼくらが歌っているのは暗く
てゆっくりして内向的なうただ。ぼく自身はラテンの要素があるかどうかはわか
らないけれど、あれを見た時に、心浮き立つような、ものごとの明るい面をうたううたを書こうと決めたんだ。キーラの音楽はおおいにそういうものだと思う。
だから、ぼくもできるだけあれを見習おうとしている。
Q:たぶん、デクランはあなたのうたにアフリカ的なところを感じたのかもしれ
ませんね。
J:そう、デクランはまさにそう言っていたよ。アフリカから帰った後で、ルイ
と一緒に作ったゲール語のうたにアフリカ的ギター伴奏を加えて録音したことが
あるんだ。だからああいうことはずっと底流としてはあったんだ。ゲール語にア
フリカのリズムを加えるそういう試みはとても面白いと思う。アフロ・ケルト・
サウンド・システムはそのずいぶん後に出てきたけどね。あれはちょっと弱いと
思う。
「ケルト」というのには疑問がある。アイルランドで「ゲーリック」というのも似たところがある。自分たちをゲール人と呼んでいた人たちはつまらない存在で、アイルランドとスコットランドに閉じこもっていた。一方でウェールズ語は
全然違う言葉だ。共通するところはほんのわずかで、まずわからない。ブルター
ニュはもっと遠い。「ケルト」という概念は確かに存在はするけれど、それはとても遠い、「古き良き時代」のものだ。とても疑わしいところがある。アイルラ
ンドの人たちは、より広い部分でイングランドの人たちに近いし、ウェールズの
人たちもその点は同じだろう。ケルトというのはどうも疑わしい。そりゃ、イン
グランド人はケルトじゃなくて、ぼくらはケルトかもしれないけれど。
Q:次のプロジェクトは何でしょう。
M:次のアルバムかな。
J:次のアルバム用には、たくさんうたが溜まっている。ルイと作ったうたもた
くさんある。カラン・ケイシィがこの間取りあげた「ソング・オヴ・ルイス」が
ある。それから「ドンストール・ガールズ」がある。「ドンストール」というの
はアイルランドのスーパーマーケットのチェーンなんだ。そこのレジの女の子たちのうたで、とても笑える。
M:「バンク・オヴ・アイルランド」のうたみたいな?
J:「バンク・オヴ・アイルランド」は笑えて、しかもシリアスなところがあったが、「ドンストール・ガールズ」は笑えて、しかもほろっとさせるものになる。
M:ステージではやっているけれど、録音していないうたもたくさんあるでしょ
う。"Mad woman of Cork" とか。
J:あれはできたばかりのうただ。あれについては話がある。ルイとぼくともう
一人、グレッグ・デュランテというやはり詩人がいる。かれはコークの出だが、
今はアメリカに住んでいて、詩人として成功している。Norton Anthology of
American Verses に2本、作品が選ばれるとかそういうものだ。登山家でもあ
る。ぼくらは酔っぱらっては文学で世界征服をするようなほらを吹いている仲
だ。で、そのぼくらのお気に入りの詩人で、コーク出身の詩人のパトリック・ガ
ルヴァンという男がいる。彼は北で言えばノーベル賞をもらったシェイマス・ヒ
ーニィに匹敵する詩人だが、誰もが知っている詩人ではない。知る人ぞ知るとい
うところで、それは大学詩人だからなんだ。かれはたくさんの歌を作ってうたっ
ているし、自伝や詩もあって、ぼくら、大好きなんだ。クリスティ・ムーアはか
れのうたを二つほど録音している。"James Connolly" はパトリック・ガルヴァ
ンのうただ。今76歳で病気で入院している。そのガルヴァンの一番有名な詩が
"Mad woman of Cork" なんだ。凄い詩で25カ国語に訳されてる。日本語もそこに
含まれているかどうか、確認していないが、たぶんあるんじゃないか。その詩に
昔から曲を付けたいと思っていた。ただ、ジミィ・マカーシィのうたに "Mad
lady and me" というすばらしい歌があって、それで踏み切れないでいた。真似
をしたと言われるのが否だったんだ。ジミィは親友だから、気にはしないだろう
けど。でも、とにかくやってみた。できたばかりで、それ以来どのギグでもう
たっている。
あれは短い詩で、最近中国語に訳された。
Q:コークには何か特別なところがあるんでしょうか。
J:まあ、あそこはアイルランド第二の都市で、住んでいる人間は自分たちが世
界最高の人間だと思っている。コーク出身の作家は多い。短篇作家のフランク・
オコナー。ほぼ同世代のやはり短篇を書いたショーン・オフェイラインもいる。
音楽でもたくさんいる。ショーン・オ・リアダはリマリック出身だけど、ずっと
コークに住んでいて、コーク大学で学位を取っているし、自分はコークの住民だ
と思っていた。かれの伝統はいまでもクール・エーのパダー・オ・リアダの合唱
隊に生きている。あれは大好きだ。とても強力だ。ロックン・ロールではロ リィ・ギャラハー。ジミィ・マカーシィもコークだ。かれはぼくのように後から
出てきた人たちにとても大きな影響を与えた。シネィド・ローハン。ぼくにとっ
てもジミィにとってもよい友だちだ。詩人もたくさんいる。そんなに有名ではないかもしれないが。他にも多分きみたちなら知っていそうなソングライターたち
がたくさんいる。ドナ・ロングもそうだ。ドロレス・ケーンがよくうたってい
る。ロック方面では、キーラン・ケネディもいる。ブラック・ヴェルヴェット・
バンドをやっていた。かれは同級生だ。マリア・ドイル・ケネディが彼の奥さん
だ。
M:『コミットメンツ』の?
J:そうだ。結婚する前はブラック・ヴェルヴェット・バンドのヴォーカルだっ
た。まだまだ他にもたくさんソング・ライターがいる。作家もいる。小さな町だから、みんながみんなを知っている。ダブリン出身のロック・バンドは、国際的
な、アメリカ的なロック・ミュージックをやる傾向がある。U2のように。ダブ
リンでのロック・バンドはどれもアメリカ的な声を持つ。コーク出身のロック・
バンドはそれよりもコーク的なんだ。Republic of Cork を掲げて、ロイ・キー
ン万歳をやってるウェブ・サイトなんかもある。とても笑えるよ。
Q:新しい、若いソング・ライターで誰か推薦できる人はいますか。
J:Ger Wolfe だな。かれはぼくの弟子なんだ。ぼくがかつてジミィ・マカー
シィの弟子だったようなものだ。何世代か下で、とても仲の良い友だちだ。ジャーの歌を聞いた人はみんなジョン・スピラーンだというけれど、でも、かれは独
自の声を持っている。RAGGES GROUND というアルバムがある。
Q:あなた、あそこでうたってらっしゃいますよね。
J:そうだ、シネィド・ローハンも歌ってる。かれのうたは詩として印刷して
あっても読めるんだ。ディラン・トーマスにとても似ている。言葉が流れるようだ。まだ、それほど成功して、有名になっているわけではない。結婚していて、
ふたりの小さい子がいる。主夫をやってる。何をやっても覚えられない、どうし
ようもないんだ。
Q:「プリンセス・ストリート」が突破口になったとおっしゃっていますが、も
う少し詳しくお話していただけませんか。
J:21歳の時、二つ、凄いうたが書けた。ぼくは思った、これだ、これでぼくは偉大なソングライターになれる。ところがその後何も起きなかった。最初の2曲で止まってしまった。次に扉が開くのは10年後まで待たなければならなかった。
その21の時に書いた一曲が「プリンセス・ストリート」だった。その前に書いて
いたのはロック・バンドのためのものだった。どれも大したもんじゃなかった。
ろくに何も読んでいなかった。そこへいきなり生まれたのがあのうただった。それにあれはコークを歌った歌だ。当時、そんなうたは他にはほとんど無かった。
ジミィが "Mad lady and me" を書く前だ。あれはぼくが書いた、本当に良い最初のうただった。今でもうたっている。
Q:歌詞は全然変えていませんか。
J:一ヶ所だけ、最後のコーラスの1行はD・H・ロレンスからかっぱらってい
る。ルイ・ド・プーアから聞いた話だ。ロレンスが死んだ時、枕の下から紙切れ
が一枚出てきて、そこに鉛筆で殴り書きされていた。"Her ankles all bathed
in moonlight"。人生でこれほどロマンティックな表現は他に聞いたことがな い。それである時、ヴァリエーションとしてその一行を挿込んでみた。あれは完全にロレンスから盗んだものだ。あれだけは変えている。
ルイはゲール語で俳句をやるんだ。とても人気があるんだ。ゲール語で詩を書く人はみんなやってる。大好きなんだよ。
先週ルイがシャノン空港で作ったのは 英訳すると、
Cheek of the sky bloodied shame Shannon Airport.
(イラク戦争に向かう米空軍機がシャノン空港を給油に使っていることに抗議し
た一句)
Roisin Dubh (= Little Black Rose of Ireland) のためのブロークン俳句だね。
2003.4.11 渋谷Bunkamuraカフェにて
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