【THE MUSIC PLANT】JPP アルト、インタビュー



JPP - ペリマンニの伝統を現代に伝えるスーパーグループ



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アルト・ヤルヴェラ インタビュー


ペリマンニの文化


――まず、JPPなど伝統音楽家を指す用語としていつも出てくる「ペリマンニ」(Pelimanni)について、簡潔に説明してもらえますか? 

「ペリマンニというのはスウェーデンの「スペルマン」(演奏者)から来ていて、英語に直訳すると「Play man」(演奏者)で、主に結婚式で演奏する者のことなんだ。つまりフィランドの伝統音楽は、本来、何よりもまず結婚式のためのものなんだよ。ペリマンニの演奏がMCのように入ってきて式を演出していくんだけど、その音楽が結婚式においては一番大事なことなんだ。たくさんの音楽が結婚式で演奏され、それが3日3晩続く。それぞれの儀式にあわせて、それぞれの音楽があるんだ」


――ペリマンニの音楽は、もともとは17世紀~18世紀に、スウェーデンやドイツなどから入ってきた音楽がベースになっているというのを読んだことがあるんだけど。

「そうだね。フィンランドにおいては、文化圏の違いが国を分断しているんだ。西部はスウェーデンなどヨーロッパ諸国からの影響が大きい。東の方はロシアからの影響が大きい。フィンランドは1809年までスウェーデン領だったわけだから、結局それまでは、ストックホルムを中心とする現在のスウェーデン・エリアからの影響が大きかった。僕がやっているスタイルは、だいたい西の音楽だね」


――JPPには結成当初からハーモニウム(足踏みオルガン)が入っていて、それが、いろんな他の北欧伝統音楽を聴いていた僕にとっては新鮮な驚きでした。ハーモニウムを使うのは、ペリマンニ・スタイルとしては元々自然なことだったんでしょうか。

「いや、絶対にハーモニウムがなくてはならないってわけじゃない。実は、フィドラーたちがよく集まった場所の一つに学校があげられる。で、学校には歌の伴奏のためのハーモニウムがあるだろう? カウスティネンは僕の文化的ルーツなんだけど、そこに最初に登場したハーモニウムは手作り品で、1890年代のことだった。ハーモニウムはもともとフランスで1840~1850年くらいにできた楽器だ。で、19世紀末以降、カウスティネンを含むオストロボスニア地方(西フィンランド)ではハーモニウムが多く使われるようになり、それがそのエリアの音楽の一つの特徴となった。
 また、その後、コンスタ・ユルハ&プルプリペリマンニット(Konsta Jylhä and Purpuripelimannit)というバンドがすごく有名になったんだが、彼らがフィドル3人とハーモニウムとベースという編成だったことも、ハーモニウムが取り入れられるようになった大きな理由の一つだと思う」



コンスタ・ユルハの影響


――コンスタ・ユルハのバンドが特に活躍したのは70年代初頭ですよね? 

「Purpuripelimannitのバンド自体は、結成は55年なんだ。最初はカウスティネン・プルプリペリマンニット(Kaustisen Purpuripelimannit)という名前だったんだ。Konsta Jylhä and Purpuripelimannitとして活動し始めたのは、例のカウスティネン・フェスティヴァルの直後ぐらいじゃないのかな…はっきりとはわからない」


――あなたは64年生まれだから、子供の頃に彼らの演奏を観て面白いと思ったわけですね。

「そうだね。というか、僕のおじいちゃんもこのバンドのメンバーだったし。コンスタ・ユルハ&…の頃ではなく、もっと前の時代(Kaustisen Purpuripelimannit)だけどね」


――コンスタ・ユルハは、カウスティネン周辺エリアでは、既に当時から伝説的なフィドラーだったんですよね。
「そうだよ。全国的にもすごく有名だった。1970年、1971年には有名なロック・フェスティヴァルとかにも出るくらいだった。しかも彼の名前がフェスのラインナップでも特に大きな字で書いてあるような(笑)」


――あなたの家は3代続くフィドラーだそうだけど、家の中ではポップ・ミュージックよりも伝統音楽が普通に流れたり、演奏されたりしていたのでしょうか。

「そうだ。家で聴いていたのは伝統音楽だけだったよ。ただ、僕が小さかった頃は、父は伝統音楽と並行してダンス・バンドもやっており、そこでは僕もベースやドラムで参加してダンス・ミュージックを演奏していた」


――カウスティネンのあたりが伝統音楽的環境が濃厚であり、また、あなたの家がフィドラーの家系とはいえ、伝統音楽をやるというのは、まだ、けっこう特殊だったわけでしょう?

「そうだね。もっとも僕は、カウスティネンで生まれ育ったというわけじゃないんだ。僕はもっと南の方のハットゥーラという町の出身だ。だから余計に伝統音楽一家というのはレアだったし、友達にヴァイオリンを演奏するなんてとても言えなかった。ハットゥーラは、ここだよ(地図を指差して)。で、カウスティネンはここだ」

――ハットゥーラには何才までいたんですか。

「1980年。で、カウスティネンに引っ越した。16才のときだ。元々は、カウスティネン出身の僕の父が1955年にカウスティネンから南へ引っ越して、ハットゥーラで母と結婚したんだ」


――ハットゥーラの伝統音楽とカウスティネンの伝統音楽は、スタイルもだいぶ違うんですか。

「うん、すごく違っていたね。ハットゥーラでやるのは南フィンランドの伝統音楽だったし、だいたいそんなに伝統音楽シーンがアクティヴじゃなかった。だけど私の父とティッモの父はハットゥーラの地元のフォーク・ミュージックの集まりで出会った。彼らは毎週集まっていたんだ。そうやって僕もティッモに出会った。1972年のことだ」


――で、その後(1982年)あなたとティッモはJPPを結成した。結成してすぐに評判になりましたけど、それは従来のペリマンニ・バンドと違ったというか、JPPがやってたことが斬新だったから評判になったんでしょうか。

「そうだと思う。盛り上がりの理由の一つに、従来のペリマンニ音楽よりもずっとモダンだったということがあげられる。新しいハーモニーとか、ヴァイオリンのパートを従来よりも多くしたりとか。音楽を現代化したんだ。80年代から今にいたるまで、その姿勢は変わらない。たとえば、JPPの『ヒストリー』というアルバムの15曲目。あれは、1983年に録音した、すごくトラディショナルな曲で、ヤルヴェラ・フィドラーズやコンスタ・ユルハ&プルプリペリマンニットがやってたような演奏だ。でも他の曲…たとえば、その3年後に録音した9曲目とかを聴いてみれば、違いがわかると思う。まぁ、前者はトラディショナルで、後者は新曲だったっていう差もあるけどね」



アカデミーでは学べない,伝統音楽の神髄


――JPP結成後、あなたはシベリウス・アカデミーに入りますよね。それは、伝統音楽をもっと本格的に勉強したかったから?

「いや、というよも突発的な事故さ。さっきのカレッジ(音楽大学)を終えたのが1983年だったが、その83年はシベリウス・アカデミーが民俗音楽学科を設立した年でもあった。僕はカレッジ卒業の頃、いくつか次の学校を探したんだけど…その一つは大工の学校で、もう一つがシベリウス・アカデミーだった。大工の学校の方は落ちたので、結局シベリウス・アカデミーに行ったんだ(笑)」


――あなたの家は代々続くフィドラーであり、あなた自身お父さんやお爺さんから演奏法や曲を習ったと思いますが、伝統音楽の習得については、それ以外にどういった方法がありましたか。田舎に行って、埋もれた音楽や演奏家を見つけてきたりとか?

「そうだね。ここのところ、アカデミーではあまり予算がないから、僕がやるほとんどの教育はヘルシンキで行われているんだけど、僕はなるべく生徒たちに年寄りのプレイヤーに直接会いに行って学ぶことを奨励している。実際にその場所を訪ねるってことが重要だと思う。だって、そこがその音楽の生まれた場所だし。そこの生活においては、音楽はほんの10%に過ぎない。人々は働きに森に出かけたり、別の仕事をしたりしている。そこにおいては、フォーク・ミュージックは、彼らの趣味であり楽しみである。彼らはまったく自分の楽しみのために演奏しているんだ。学校で学ぶ生徒たちの音楽に対する接し方とは、まったく違うんだよ。アカデミーにおいては、生徒たちにとっては、100%が音楽であり、更には音楽を現代化しようともしている。そこが、田舎の伝統音楽家たちとの大きな違いさ。つまり、違う方向へ持っていこうとしているんだ。
 だから僕は、カウステイネンでペリマンニ音楽を学んだ3年間の方が、ヘルシンキで11年間に得たことよりも大きいと考えている。僕はカウスティネンでの3年の間、ヤルヴェラ村で実際に生活していたし、そこのフィドラーに直接会って一緒に演奏してた。その環境の中で、伝統音楽が日々の生活にとけ込んでいる実際の様を目の前で見ていた。当時僕は、祖父のヨハネス・ヤルヴェラの家に居候し、一緒に生活してたんだ。彼はマスター・フィドラーだった。森の中で、ヤルヴェラ村で、実際に生活していたんだ。そういう経験って、シベリウス・アカデミーじゃ学べないんだよ」


――ところで、80年代以降のフィンランドのフォーク・シーンを振り返るときに、JPPとヴァルティナが
一番影響力があったんだろうな、と傍目からは見えるんですけど、それについては自分ではどう思いますか。

「そうだね。ヴァルティナは北東部の音楽を代表していたし、JPPはカウスティネンの音楽を代表していた。実際、多くのバンドに影響を与えたと思うよ」

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ノルディック・トゥリー「コントラダンス」のライナーノーツより松山晋也さんのインタビューをほんの一部抜粋しました。全文は「コントラダンス」で読むことができます。