| アイルランドの夏はフェスティヴァルの季節である。ゴールウェイ・アーツ・フェスティヴァルのように総合的で大がかりなものもあれば、ローカルにささやかに行われるものもある。音楽に限られるわけではないが、音楽の存在はやはり大きい。近年ではわが国から出かけて行く人も多いと聞く。
中でも伝統音楽ファンにとっていわば「メッカ」的存在なのがウィリィ・クランシー・サマー・スクールだろう。偉大なパイパーにしてシンガーだったウィリィ・クランシーにちなみ、毎年7月の第1週にクレアで開かれるイヴェントである。「スクール」だけあって、このイヴェントはコンサートやライヴよりもワークショップをはじめとする歌、楽器、ダンスの実践の場の色彩が濃い。この1週間、クレアの小さな村ドゥーリンはふだんの数百倍の人口に脹れあがる。アイルランド国内はもとより、アメリカはもちろん、ドイツをはじめとす るヨーロッパ各地、あるいはわが国やオーストラリアなどからもアイルランド音楽のファンが集まる。音楽やダンスの名手は少なくないが、プロとしてツアーしてまわっている人はほんの一握りで、たいていは食べるための仕事を持っている。ふだん接する機会の限られるそういう人びとが一堂に会してその演奏やパフォーマンスに直接触れることができ、しかもそうした名手に直接教えを乞うことができる。毎年「もどって」行くリピーターも多い。 「スクール」だからとてそこはアイルランド音楽なので、「授業」ばかりしているわけではない。とりわけ夜ともなれば、あちこちのパブや民宿のキッチンではたちまちセッションが始まる。実はこちらの方が楽しみ、という人も少なくないらしい。特にアメリカやドイツなど、「アイルランド音楽人口密度」が比較的希薄で、ふだんはいつも同じ仲間と演奏をしているという人びとにとっては、またとない機会となる。もっともいつもいつも良いセッションができるとはかぎらないのは、セッションということの性質から当然ではある。背景の異なる人びとが集まるわけだから、行違いが起きる可能性も大きくなる。例えば楽器があるていどできるようになり、有頂天になった人が、まわりにおかまいなく「乱入」して流れをぶち壊す、ということも起きる。こういう方向で評判が悪いのはバゥロンやギターなどのリズム担当楽器である。アイルランド音楽はメロディ楽器だけでも十分演奏可能だから、下手なリズム楽器が入ると、確かにぶち壊しになる可能性は高くなる。まあ、これに関しては、フィドルや蛇腹やパイプに比べれば、バゥロンもギターも「新参者」という面もあるのではないか、と外野からは見える。 かとおもうと、今年のウィリィ・クランシー・スクールで、ちょっと変わった人物が見られたというのである。中年の男性で、フィドルを持って、セッションに参加していた。他の参加者と同じようにフィドルを構えて手や指を動かしたり、また下ろしたりしている。ところがこの男、ただの一音も出していなかったのだ。楽器自体高価なものではないが、かなり使込まれた痕があるものでもあったと言う。セッションはかなり参加者が多かったから、その場で気がついた人はあまりいなかったらしい。そこにいたあいだじゅう、男は一言もしゃべらず、にこにこしながら、ただひたすら「演奏」していた。ミュージシャンということでちゃっかりギネスのサーヴィスも受けていた。 アイルランド音楽のメーリング・リスト IRTRAD-L でこの話が出ると、その同じ人物は、また別のマンドリンのワークショップにも参加して、やはり「フリ」をしていたという証言が、当のワークショップの講師役からでた。なんでも男はとにかくどんな楽器もまったく操ることができず、またどうやらどんなに練習してもできるようにならないらしい。それでもセッションに「参加」したい、という気持ちだけはおそろしく強かったとみえる。 感心してしまったのは、こういう人物がこの男一人だけではないのである。同じメーリング・リストで、先の証言を受けて、アメリカ東部のある街でも、やはりセッションにフリだけで「参加」している人間がいる、という投稿があった。二度あることは三度ある。同じような人間が二人いるのであればおそらくまだまだ何人も、あちこちにいるに違いない。 こういう人たちが実際どんな気持ちでフリをし、セッションに「参加」しているのかはわからない。しかし投稿された話から推測するに、切羽詰まってぎりぎりの状態であったり、ばれはしないかとびくびくしていたのではないようにみえる。むしろ、本人なりに「楽しんで」いたように感じられる。そんなやつらはただ人なみはずれて図々しいだけだ、と言われるかもしれない。とはいえ、この話を出した人も、それに対する反応も、特に腹を立てたり、非難したりするものではなかった。 確かなのは、そこまでしても「参加」したくなる、あるいは「参加」させてしまう何かがアイルランド音楽のセッションにはある、ということだろう。そしてまた、そうした行為を、特段非難することもなく、苦笑いしながらも受入れてしまう懐の深さがそなわっているのではないだろうか。 音楽の楽しみ方には実に様々な形がありうる。演奏する、聞くだけではないのである。思いもかけない形で、傍から見ればとうてい「楽しんで」いるとは思えないような形での楽しみ方が、まだまだ他にもあるに違いない。そうしてその様々な形を尊重するだけの「余裕」が、少なくともアイルランド音楽にはあるようにぼくには思われる。 そんなことがあらためてしみじみと胸に沁みてきて、何ともいい気分になったことだった。こういう余裕が、意識することなく、ごく自然に現われるようになれれば、この夏の妙な天候もなんとか乗りきれるというものだ。 2001年8月
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